SEALDsデモ参加日記

 SEALDs Kansaiの《安保関連法の廃止を求める京都デモ》にひっそりと佛教大学有志の会として参加してきました。「学者の会」関係では立命館教員有志の会のノボリなども見え、京都府立大立命館などの教職員も何名か参加していたようです。本学の元学生も一人、スタッフとして活動しており声を交わしました。

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写真:SEALDs Kansai公式ツイッター 2015/12/20より引用

 

 安保法が可決されて3か月経ったということで、夏頃に1500人ほど集まった情況と比べると参加者は減ってしまうのかなあと心配していたのですが、好天に恵まれ円山公園の集合地点では、夏頃と同程度の人が集まっていました。

 河原町をぐるっと一周するのは若干長かったですので(SEALDsのデモコースはいつも一周します)、途中で外の良く見える喫茶店インパルスに入って、一周してくるのを友人と待ちながらデモ隊列を見学しました。これがなかなか隊列が長く、それでも1000人はいないくらいかと話をしていたら、次のサウンドカーがまたやってきて同程度の人が歩いてきましたので、一見して1000人は明らかに超えていたはずです(主催者発表では延べ1800名でした)。

 

 SEALDsのデモは見た目が洗練されて、音もnujabes等のトラックを使った良い雰囲気ですので、沿道の反応はかなり好意的だと毎回感じます。それ以外の、反原発であったり反ヘイトスピーチの活動でも、しばしば一参加者として沿道でビラ配りをすることもあるのですが、確実に反応してくれるのは欧米の観光客(好意的な反応率は経験によると95%)くらいです。

 約半数の買い物客や通行人からは単に無視されるか、場合によっては邪魔なんだよとかお前らうざいとかいった罵声を浴びせられることもしばしばなのですが(こういう反応をする人は経験によると一部の日本人中高年男性のみです)、今日はそういうこともほぼ無く、学生スタッフが配布していたビラをほとんどの人が手に取ってくれていました。

 

 日本では過去長きにわたって、政治的な議論を真顔でやるという風習が世間一般では廃れてしまって、京都マラソンやどこかの大使が来る際の通行規制には誰も文句を言わないけれど、直接民主主義による通行規制には文句を言うという、あまり公共的議論にとっては好ましくない風潮が醸成されてきたように思います。そしてこうした風潮は同時に、高校や大学で、学生同士で真面目にマックス・ヴェーバーケインズの話をしようものなら、ちょっと変な人として軽蔑されがちであるという、そうした哀しい状況とも似ていると感じます(大学教員としては本当に何とかしたい問題です)。

 SEALDsの活動や主張に対して、あるいは個別の論点に対して論争があることはもちろんです。しかし、SEALDsがやろうとしていて、実際に一定の成果を出している部分というのは、こうしたデモや政治的議論を公共圏でどんどん行って、議論をしていいのだというコミュニケーションの作法への変革なのだろうと思います。一人一人が、デモに行くなり、公共の場で議論を行うなり、そうした実践の積み重ねによってでしか、知的公共圏と民主主義は守れないものです。(Y)